令和8年熊本地震の直後、イオンモール熊本で発生した爆発事故では7名が亡くなりました。施設側には「安全確認が完了するまで再入館を認めない」という明確なマニュアルが存在していたにもかかわらず、複数の人が屋外避難後に館内へ戻っていた(再入館を認めた)ことがわかっています。その翌月、栃木県の東武日光線新鹿沼駅では、特急「スペーシア X」が除草作業中の作業員4名と接触し、全員が死亡する事故が起きました。ここでも列車見張員が配置され、退避指示や列車への合図を送る安全確保の仕組みが設けられていたにもかかわらず、事故は防げませんでした。二つの事故に共通するのは、「ルールがなかった」のではなく、「ルールはあったのに、実行段階で機能しなかった」という点です。この構造は、企業のリスク管理を考えるうえで極めて重要な示唆を含んでいます。ルールは「存在」するだけでは機能しないイオンモールのケースでは、再入館の可否を判断する権限は本来、安全確認を終えた施設責任者にあるはずでした。しかし報道によれば、出入り口によっては従業員かどうかの確認すら行われず、誰でも館内に戻れる状態だったとされています。加えて、一部のテナント企業が「(戻って)売上金を金庫に」と従業員に指示していたことも明らかになっており、組織のルールよりも上長の指示や職務上の責任感が優先されてしまった実態がうかがえます。東武鉄道の事故でも、列車が走る昼間の作業について「見張員を適正に配置し、退避できる状況を作れる場合には昼間の作業を認める」という規定に基づいて実施していると記者会見で語っていました。しかし、見張員を適正に配置していながらも、見張員から作業員への伝達、あるいは列車側への合図のいずれかの段階で情報がずれ、結果として全員の退避が確認されないまま列車が進入した可能性が指摘されています。つまりどちらの事故も、「ルールを作ること」と「ルールが現場で機能すること」の間にある溝が、そのまま人命の損失につながってしまいました。この溝を生む最大の要因が、組織の流動性——人事異動、店舗異動、パートやアルバイトを始めとする頻繁な人の入れ替わり——だと考えられます。なぜ流動性がルールを形骸化させるのか大規模商業施設や鉄道に限らず、現場には常に一定数のベテランがいて業務を担い続けているわけではありません。テナント従業員の多くは非正規雇用であり、シフト制で入れ替わります。線路工事の作業員も、その日ごとに編成される班によって顔ぶれが変わることが少なくありません。スキマバイトに頼らざるを得ない現場もあるでしょう。このような環境では、マニュアルを一度配布し、研修で説明したというだけでは不十分です。人が入れ替わるたびに、「なぜこのルールがあるのか」という理解の解像度は薄まっていきます。特に緊急時には、詳細な手順を思い出す余裕はなく、体が覚えている最小限の行動しか実行できません。ルールが複雑であればあるほど、また周知・理解の程度が入れ替わりのサイクルに追いついていないほど、現場は「その場の空気」や「直属の上司の指示」を優先しやすくなります。流動性を前提にした設計への転換こうした問題に対処するには、「ルールを徹底させる」努力を積み重ねるのではなく、「誰が担当しても、間違えても、致命傷に至らない仕組み」へと発想を転換する必要があります。「ルールを理解し、実行できる人」が現場にいることを前提とした仕組みはどこかでほころびます。人に依存しない仕組み作りには、次のような視点が有効です。第1に、ルールの数を最小限に絞り込み、緊急時にとっさに実行できる単純な行動原則に落とし込むことです。詳細な手順書は平時の教育資料としては有効でも、パニック下での行動指針にはなりにくいものです。第2に、判断を個人の裁量や記憶に委ねず、物理的・構造的な仕組みで担保することです。一人の見落としや一時的な人員の質のばらつきが、即座に重大事故につながらないよう、伝達手段の二重化や、複数の独立した防御層を重ねることです。イオンモールの事例で言えば、入館可否を「案内する人」に頼るのではなく、施錠やゲート、警報など、担当者の裁量では突破できない仕組みにする方が確実性は高まります。東武鉄道の事故のように、安全確認を見張員に依存する設計は、その一点が崩れた瞬間に破綻してしまいます。列車の位置情報がわかる端末を見張り員に持たせている鉄道会社もあります。列車が接近した際に、自動で作業員に退避を促すシステムも開発されています。機械的な検知システムの併用など、人の注意力だけに頼らない多重防御が求められます。第3に、現場の指示系統と安全ルールが衝突した場合に、安全を優先する文化と権限設計を明確にすることです。テナント企業の「戻ってこい」という指示に対し、従業員が安全を理由に拒否できる、あるいは施設側の安全確認が最優先されるという序列を、平時から周知し、実際にそれが機能するかを訓練で確認しておく必要があります。組織は生き物のように変化し続けます。今日ルールを完璧に理解している従業員が、来月には別の部署に異動しているかもしれません。人に依存した組織運営で、しかもコミュニケーションが希薄になりがちな昨今では「人」自体が機能不全に陥っていたりブラックボックス化してしまうリスクを抱えてしまいます。だからこそ危機管理には、「今いる人材にルールを徹底させる」という発想だけでなく、「人が入れ替わっても機能し続ける仕組みをどう設計するか」という視点が欠かせません。イオンモールと東武鉄道、二つの痛ましい事故が突きつけているのは、まさにこの設計思想の転換の必要性だと言えるでしょう。